Ave verum corpus







薄暗くてどこか埃っぽい音楽準備室に、柔らかなピアノのメロディが響く。
曲目はアヴェ・ヴェルム・コルプス、モーツァルトの聖歌だ。
もうすぐ期末試験で、その後は冬休みというどこか落ち着かない12月の午後、音楽の授業は歌のテストだった。
「はい湯沢、放課後追試な」
その言葉に、うつむいてひたすら譜面を追っていた湯沢はぱっと顔を上げた。
ピアノを弾いていた白いブラウスの音楽教師・緑川が、こちらを向いてにっこり笑う。
「えっ……」
「え、じゃないよ。おまえ声、全然出てないじゃないの」
自覚はあった。湯沢は歌が苦手だ。音程が取れているのか自信がなくて、たいていの場合口パクでやりすごす。
特にこのカトリックの学校で毎日のように歌わされる、聖歌の類は音程が取りにくい上、
歌詞も英語やらラテン語やら意味がわからなくて苦手だ。
「はあ、すいません……」
「掃除が終わったら準備室に来なさい。歌えるようになるまで帰らせないからな。
じゃあ次の人呼んでこい」
湯沢は溜め息をつきながら音楽準備室を出る。
ありがとうございました、と挨拶をするのも忘れた。
順番待ちの生徒はすでにドアの前で待機していた。
入れ替わりで音楽室に戻ると、クラスメイトたちは自習の名目で大騒ぎしている。
騒ぎに加わる気にもならず、湯沢は席についた。
ポケットから携帯を取り出し、サッカー部の部長に
『音楽のテストが追試になったので、今日の部活は遅れます』とメールを入れる。
それから机に突っ伏して寝始めた。
隣の準備室からゆったりとした流れてくる旋律は、子守歌にはもってこいだった。




放課後、掃除を終えてから音楽準備室に向かう。
足取りは重い。
さっさと終わらせて部活に行きたいけど、歌えるようになるまで帰さないと言っていたのが気になる。
音楽の緑川先生は、今年入ってきたばかりの新任教師だ。
若いの女性とあれば好奇の目で見られてからかわれたり、ばかにされたりするのがこの男子校の常なのに、
彼女にはどこか有無を言わさぬ迫力があって、なぜかみんな真面目に授業を受ける。
音楽の授業なんて、サボりながらちんたら受けるのが当たり前の雰囲気なのに、だ。
「失礼します」
準備室のドアをノックして、返事を聞く前に開く。
準備室の分厚い防音扉では、どうせノックの音なんか聞こえない。
上履きを脱いで中に入ると、ちょうど別のクラスの生徒がいて、ピアノの脇に立って緑川と話していた。
彼も追試らしく、深緑色の皮の表紙の聖歌集を脇に抱えている。
「お、湯沢。ちゃんと来てえらいぞ」
緑川が立ち上がり、追試の生徒に帰っていいぞと声をかける。
いかにも教師の言うことなんか聞きそうにない、髪の毛をずいぶん明るくした生徒だったが、
緑川に向かってきちんと一礼してから出て行った。
そろそろとピアノのほうに近づく。
準備室のアップライトピアノの上には、教科書や聖歌集、楽譜なんかが無造作に積まれている。
緑川はその下からの名簿を取り出すと、なにやら書き込んで、またピアノの上に戻した。
緑川のすぐ横に立つのはなんだか居心地が悪くて、湯沢は何度も白い靴下の爪先で準備室の絨毯をこすった。
「じゃあ発声から」
緑川が鍵盤の指を重ねると、じゃらん、と勢いよく音がした。
それから音階、ドレミレド、くっきりとしたピアノの音に緑川の声が重なる。
「湯沢、声出して」
促されて小さく口を動かす。ドレミレド。
「もっと口あけて」
和音が隣の音階にのぼる。もう少しだけ、口を開いた。ドレミレド。
緑川の手が鍵盤から離れる。すっと椅子から立ち上がると、湯沢よりも背が高い。
「もっと開くだろ?」
親指と中指で、ぐい、と頬を左右に引っ張られる。自然に口が開く。緑川の指は細いのに力強い。
「そのまま口、縦に開けて。思いっきり」
強引さに驚くけれども、逆らえない。
普段しゃべるときも笑うときだってこんなふうにはしないってほど、顎を思い切り下げる。
「そう。で、口角は上のほう。笑って」
そのまま頬を持ち上げられる。頬骨の位置が上がって、強制的に口が笑みの形になる。
文句を言う隙もなかった。
「うん、そのまま声出して」
緑川の指は再び鍵盤の上に戻った。頬にはまだ、その感触が残っている。
言われたとおりの口の形で音階をなぞると、自分で思うよりもずっと大きな声が出た。
喉仏が震えて、詰襟とぶつかって少し苦しい。制服の上のほうのボタンをあける。
そういうのは、少しだけ、面白かった。
「このへんまで出るか?」
湯沢がきついとおもう高音域まで、緑川はやすやすとリードした。
湯沢は重たく切りそろえた前髪の下で眉間に皺を寄せ、きつい音を響かせる。
腹の下のほうがびりびりと震えた。
「このへんでやめとくか」
おしまいの合図に和音が鳴る。それからすぐに課題曲の前奏。
ゆったりとしたメロディを作るために、緑川の指が深く鍵盤を押さえる。
視線を落とすと、彼女がペダルを踏むたびに深い色のロングスカートの裾が揺れていた。
「ほら、ちゃんと歌って」
伴奏が止まる、スカートの裾に見とれているうちに歌いはじめのタイミングを逃していた。
もう一度前奏から、今度はさんはい、と合図を出してくれる。詰襟の中の喉を震わせて声を出す。
湯沢のパートはバス。繰り返される、押さえつけるような低い音。
「また口が小さくなってるよ。発声とおんなじ口の形で、歌ってごらん」
足にしっかり力を込めて、口を大きく開けて、息を吸い込む。
空気は僅かに冷たい、細く窓が開いていてカーテンが揺らいでいる。
言葉は、ラテン語だかなんだかで、意味がわからない。
授業で教わったのかもしれないけれども聞いていなかった。
それでも、緑川の言うように歌い始める。
不思議と目頭に力が入る。
さっき、緑川に触られた頬が燃えるように熱いのは、歌うことも全身を使う運動みたいなものだからだろうか。
「そう。いいよ、声出てる」
間奏でこちらを向いた緑川が笑う。不思議と心臓が跳ねた。
目を泳がせると、緑川のブラウスの胸元が目に入る。豊満な胸。伴奏の腕とともにわずかに揺れる。
そういえば、ここには今、ふたりきりなのだ。
慌てて手にした譜面に目を落とす。もう一度、深く息を吸って声を出す。
少し悲しげな部分に入る。のぼっては下りてくる、高いところにいきつけないもどかしさ。
けれどもそれはすぐに終わって、再び光が差し込むように、少しずつ、明るくなる。
一番盛り上がるところをすぎれば、最後はとても静かに終わる。
一人で、曲を支える低音のパートだけ歌っているとわからないけれども、とても美しく閉じる曲だ。
そんなふうに思ったことはなかった。
「ふふ。よくできました」
いつの間にか曲が終わっていた。緑川が嬉しそうにこちらを見ている。
やればできるじゃないかと、視線が湯沢を褒め称えている。
「なあ、もう一度歌ってみようか」
「……はい」
湯沢の小さな返事を聞き届けてから、緑川が再びペダルを踏む。
タイトルと同じ、Ave, Ave verum corpus,と始まるところ、歌いだしのパートの前で息を吸う、
その呼吸が重なる。
ア、と歌いだしたとき、ふたり分の声が響いた。
驚いて緑川を見ると、いたずらっぽく目を細める。
緑川はソプラノのパートを歌っている、自分の音に、やわらかなヴェールのようにふわりと重なってくる。
引きずられてわからなくならないよう、必死で音を追いながら、けれども緑川の唇から目が離せない。
緑川の唇は実に多彩に動いて、さまざまな音を紡いでいる。
大きく開かれるところもあれば、高音で口をすぼめるようにして、
まるで額のあたりから声が響いてくるように聞こえるところもあった。
自由自在で、天女の羽衣みたいにやわらかくて、気持ちいい音だ。
重厚でストイックな宗教曲が、奇妙に官能的に感じる。
湯沢の歌うバスパートに絡みつくようでいて、手が届かない場所にただよっている。
最後まで歌いきり、大きく息を吐く。
1曲の時間がものすごく長く感じた、なのにもう終わってしまったのかという感想だ。
「気持ちよかっただろ。もっと人数がいて、全部のパートがそろったら、もっと気持ちいいよ」
緑川が湯沢の頭を撫でる。それから、しまったというように慌てて手を引っ込める。
「……先生。もう、行っていいですか」
心臓が早鐘を打って、もうこれ以上はここにいられないと思った。
早く、早く部活に行って、頭が真っ白になるまでボールを追いかけたい。
「ああ、いいよ。合格。ご苦労さん」
湯沢はありがとうございました、と深々と礼をして、音楽準備室を後にした。
廊下で待たされていた上履きはすっかり冷たくなっていた。引っかけて、部室まで走る。
鼓動の早さを自覚したくなかった。だからどんどんスピードを上げた。
あんなに簡単に、鍵盤を叩く指が自分の頬に触れたこと。
やわらかい歌声が、自分の声に重なって響いたこと。
白くて細い手が、自分の頭に置かれたこと。
薄暗い埃っぽい部屋で、ふたりきりの時間を過ごしたこと。
それだけだ。それだけのことなのに鳩尾がぎゅう、と苦しくなる。頭が混乱する。
階段を下りきって、角を曲がればサッカー部の部室だ。
着なれた練習着に袖を通すと、やっといつも通りの呼吸ができる気がした。
遅れました、と挨拶をしてグラウンドに入る。
ウォーミングアップをしながら、しかし、先ほど教えられた口の形を忘れないよう、
湯沢はそっと唇を動かしたのだった。








2010/12/21
湯沢君かっこいいよ湯沢君!湯沢君すき!という気持ちがねじ曲がりましたすいません。
120%、私のノスタルジーと中二病によって構成されています。