とうめい







その日、石神が目を覚ましたとき、ずいぶんと長いこと眠っていた感覚があった。自分はいったいいつから眠っていたのだろうかと考えたけれども、眠りについたときのことをなにひとつ思いだすことができなかった。体を起こすと、ずいぶんと軽い。妙にすっきりと目覚めたせいだろうか、と、ふと目を落とすと、自分の身体が透けていた。その下に、もうひとつ眠っている自分の身体がある。どうしたことか、もしかして自分は死んでしまったのだろうか。けれども物々しい医療器具につながれながらも、自分の身体が呼吸をしているようなので、おそらくは生きているのだろう。

石神はとりあえずクラブハウスに向かった。たまたまその前にいた赤崎の後ろについて更衣室に入ると、いつもどおりにみんなが挨拶をしてくれた。丹波が寄ってきて、おうお前よく退院したな、と言われた。ううん、よくわかんないけど、まだ退院してない、身体は病院に置いたままなんだというと、丹波は変な顔をした。冗談はよせよ、と肩を叩こうとした丹波の手が石神の身体を通り抜けた。丹波はびっくりして自分の手を見つめていた。

それでもみんなは石神を受け入れてくれた。なんでも石神は、ひと月ほど前に交通事故にあって、ずっと意識が戻らなかったらしい。今も戻っていないけれども、霊体でうろうろしているというのが現状のようだ。どうやったら意識が戻るのかわらかないけれども、霊体として抜け出してきてしまった以上、このままなにか自分に変化が訪れるのを待つしかない。

石神は退屈にまかせて、戯れにサッカーボールを蹴ろうとした。けれども、足が通り抜けてしまうから、みんなの練習は見ていることしかできない。ベンチに座ろうとしても、やっぱりすり抜けてしまう。だから仕方なく立っていると、達海監督が、座らないのかと聞いてきた。すり抜けてしまうのだと答えると、あーそうかーやっぱそうか、たいへんだな、と笑ったので、空気椅子をして座っているように見せた。達海は空気椅子を見抜いて、まあ無理すんなよと、やっぱり笑った。

練習が終わると、石神は病院に戻った。何度か身体に戻れないかなと思って肉体に重なってみたりしたけれども、すり抜けるばかりで特になにも起らなかった。でも、やることもなくて仕方がないのでそこでじっとしていた。練習のときはクラブハウスにいてみんなの姿を眺めていられるけれども、みんなが帰ったあとは所在がなかった。自分の家に帰ってもどうせひとりぼっちだし、こんな身体だからだれかとずっと一緒にいようとするのも迷惑だろう。ただひとり、こんな自分を受け入れてくれるはずの人間がいるのだけれども、どうにも彼は様子がおかしかった。なんとなく、彼がいるから大丈夫だろうと思っていた石神のあては外れて、がっかりした。

彼、というのは同僚の堀田のことである。堀田と石神は、なんとなく付き合っているふうだった。どちらも明確なことを言ったことは一度もなかった。けれどもしょっちゅう一緒に食事をしたり、オフに遊んだり、お互いの家に行き来していたし、セックスもしていた。こんな身体になった石神を一番最初に見つけて、一番親身になってくれるはずだとなんとなく確信していたのに、そういうふうにはならなかった。

堀田は、チームメイトたちのなかで唯一、石神の姿を見ることができなかった。はじめ石神がクラブハウスに戻ってきたとき、ガミさん、大丈夫ですか、退院できたんですか、身体がないってことは霊なんですかとざわついて戸惑う中で、ただ一人、きゅっと唇を引き結んで、怒ったみたいな顔をしていた。みんなが結託して自分のことをからかっていると思ったらしい。低い声で、おれにはそこにガミさんがいるようには見えません、と堀田が言ったとき、その場がとても静かになって、石神自身もその静寂の一部になってしまったような気がした。

なんで一番自分のことを見つけてくれるはずの人だけが、自分のことが見えないのだろう。それが石神には不思議でたまらなかった。それから、堀田が石神の心配をするそぶりを見せないことも不満だった。心配性の堀田のことだから、石神の入院先に毎日来るくらいのことはしてくれそうなものだった。それは石神の願望であり、またどこかで堀田という人間に夢を見ているのかもしれなかった。ともあれ、堀田一人が今の石神を認識できないのに、平気そうな顔をしているのが淋しかった。

丹波や堺をはじめとする気心の知れたチームメイトたちはは、石神がこうなっても今までと変わらずに振る舞ってくれた。練習後のロッカールームでぐだぐだしゃべっているとき、そういえばお前、毎日違う服着てるよなと丹波に指摘されたので、なんか念力みたいなかんじで着るもの変えられた、と答えると、まじで、すげーな、と丹波は大笑いした。じゃあ好きな服切れるわけ、と言われたので、そうみたい、と答えながら日本代表ユニフォームの姿になってみせた。すっげー、もっとやってよ、と請われるがままにナース服だの、ダースベーダーだのの姿にもなってみせた。見ていた連中はみんな爆笑していたのだけれども、堀田だけは興味なさそうにしていた。当り前だ。堀田には、見えないのだから。

あんたたち、なんでそんなに笑ってられるんスか? と、冷たい声を出したのは赤崎だった。ガミさんのこれってチームの一大事じゃないんスか? なんとかしようとか考えないで、こんなくだらねぇことやってるなんて、俺には信じらんねえ、などとかわいらしいことを、真面目な顔でぬかす。なんとかできるものなら自分だってとっくに努力してる。でも、どうしたらいいのかなんかひとつもわからないのだ。なのに辛気臭い顔をしているのなんてまっぴらごめんだ。それで反論しようとしたのだけれども、赤崎がちらりと堀田を見たので、石神はつい口をつぐんだ。堀田は黙って荷物を手にすると、お先に、と言って帰って行った。当り前だけれども、石神のほうを気にする様子はなかった。

翌日、石神は珍しくトップチームの練習が終わった後も病院に帰らなかった。ジュニアの練習をぼんやりながめながら、ボールが蹴りたくて足がうずうずしているのを感じていた。事実、何度か蹴ろうとしてみたけれども、やはり足はボールをすりぬけるばかりで、なんの手ごたえも感触もなかった。実体がないとはこういうことなのか、はやく自分の身体に帰りたいなと思った。身体があれば、サッカーができる。それに、堀田に見てもらうことができる。堀田と言葉を交わすこともできる。堀田を抱きしめることも、抱き返してもらうこともできる。おれのこと、無視しないでよ、堀田くん。声に出したら誰かに聞こえるかもしれないけれども、それは堀田ではない。

無性にだれかとしゃべりたかった。だれかに、お前はここにいるよと言ってもらいたかった。こんなときに限って誰も見つからない。ロッカールームに向かい、ドアをすりぬけて中に入ると、堀田がひとりで残っていた。堀田は石神のロッカーの前に立っていた。そこにひっかけてある、5番の背番号がついたユニフォームを黙ってじっと眺めていた。堀田くん、と声をかけてみたけれども、気が付いてもらえなかった。堀田くん、堀田くん。何度呼んでも、どれだけ大きな声で叫んでも、近づいても、堀田は石神に気が付かなかった。ただじっと、ユニフォームを見ていた。

石神は堀田の腕に触れてみた。手ごたえはなく、すっと通り抜けてしまう。頬にも、髪にも、肩にも、どこにも触れることはかなわなかった。そうこうしているうちに、堀田は踵を返し、自分のロッカーに荷物を取りに行ってしまう。この場に他に誰かがいれば、自分が堀田を呼んでいるのを伝えてもらえただろうか。でも、堀田に気が付いてもらえなくて、こんなに哀しく、くやしく、淋しい想いをしているというのは、たぶんひとづてでは正しくは伝わらないのだろうと思った。涙が出そうだったけれども、かっこわるいからこらえた。

堀田は石神に気が付かないまま、ロッカールームを出て行こうとしている。引き留めるすべなど石神は持っていなかった。大きなため息をつく。と、出て行こうとしていた堀田が、足を止めて振り返った。

ガミさん?

聞かれて、石神はあわてて答えた。そうだよ、堀田くん、聞こえるの? けれども石神の声に、堀田が反応する様子はなかった。やっぱり聞こえていないのだと、もう一度ため息をついた。

ガミさん? いるんですか?

いるよ、おれはここにいるよ、堀田くん、ねえ、気付いてよ。堀田はすぐそばにいる石神には気付かず、ずっと遠くを見て、ロッカールームの中に視線をさまよわせている。ねえ、おれはここだよ、ねえ、堀田くん。触ろうとしても、触れない。声は届かない。

いるなら返事してくださいよ、ガミさん。なんでおれにだけ姿見せてくれないんですか。

堀田の声は今にも泣きだしそうだった。そんなのおれだって知らない、おれだって、堀田くんにだけ見えないとか、聞こえないとか、そんなのつらいからやだよ。言っても、堀田には聞こえない。こんなにすぐそばにいるのに、なにも伝わらない。もどかしくて、石神のほうこそ泣きたかった。

ガミさん……、ひどいよ、ガミさん。

堀田は手の甲で目を押さえていた。ごめん、ごめんね堀田くん。言いながら抱きしめようとしたけれども、すりぬけてゆくばかりなのがもどかしい。どうしたらいいのかわからない。なんの手ごたえも得られないうちに、堀田は今度こそロッカールームから出て行ってしまった。石神は追いかける気力もなかった。今すぐ肉体にかえって、そうして堀田を抱きしめたかった。こんな仕打ちをするなんて、神様はなんて悪趣味なんだろうと思う。

病院に帰ると、自分の身体は能天気そうに眠っていた。バカバカ、お前のせいだ、罵りながら自分自身を見下ろす。堀田がキスのひとつでもしてくれれば起きられるんだろうかと、どうしようもない妄想にふけるうち、猛烈な眠気が襲ってきて、石神は意識を失った。このまま天国に行ってしまったらどうしよう、そしたら堀田もさっさと天国に来てくれないかなあなどと、不謹慎なことが頭をよぎった。

次に目が覚めたとき、とても身体が重くてだるくて、ああこれは肉体の重みなのだ、間違いなく自分は身体ごと目覚めることができたのだと思った。医者と看護婦がやってきて騒ぎ、チームメイトたち、それから地方から両親までやってきて、石神が再び目覚めたことを喜びあった。石神はそういう七面倒なことは抜きにして、さっさと退院したいと思った。肉体ごと目覚めてから、まだ一度も堀田に会っていない。はやく、一秒でもはやく、彼を抱きしめに行かなくてはいけないのだ。








2010/7/19
2010/7/13の日記より。