美しく燃える森







黒い外套に帽子をかぶり、手触りのなめらかな襟巻をかけると、
石神は立てつけの悪い引き戸を開けて玄関を出た。
道の落ち葉を集めていた隣家の女中が、石神の手にした革の旅行鞄に目を留め、
オヤ先生お出掛けですかと尋ねる。
「ああ、少し、故郷にね」
答えてやるとなぜだか首の後ろがすうと冷える気がして、襟巻をくるりと一周、巻きなおした。
それはお気をつけて、と微笑む女中に軽く手を挙げて通り過ぎる。
いやにまとわりつく冷気はおそらく、故郷からの風だ。
石神の故郷は日本海側の、何の変哲もない町だ。
冬は雪に閉ざされる薄灰色の場所で、退屈な時間を埋めるために毎日絵を描いていた。
東京に来て画家として名を成してからは一度も故郷に帰っていない。
あの町が嫌いなわけではない、ただ、そこに用事も何もなかった、それだけだ。
上野で汽車に乗り込み、切符の番号を見ながら席を探す。
靴の底が木の床を叩くコツコツという音は頭の芯まで響いた。
ようやく見つけた座席にいささか乱暴に腰を落とし、緩く目を閉じてじっとしていると、発車の汽笛が鳴る。
もう後には引けない。
一等車のやわらかい座席越しの振動が尻に伝わってくる。
あの場所へ近づいて行くのだ。
なぜ石神が今、突然故郷に帰ろうと思い立ったかと言えば、
馴染みの女が石神の部屋のどこからか、一葉の古い写真を見つけてきたからだ。
写っているのは若い男だ。
黒い詰襟の学生服を着て、目深に制帽をかぶり、こちらにまっすぐな視線を向けている。
彼こそが石神の芸術の源泉、永遠のミューズ、名前を堺良則という。
拘束服にも似た学生服に袖を通していた頃の石神は、ひとつ年上の堺に心酔していた。
冬の間じゅう、積雪で外出もままらないことを口実に、
日がな一日暖炉の前に彼を座らせて、狂ったように彼の絵を描いていた。
あれはあの町で過ごした最後の冬のことだ。
その日も石神は、朝からキャンバスと堺とに交互に目をやっては、ひたすら手を動かしていた。
「まだ描くの」
一糸まとわぬ姿で長椅子に横たわった堺は、うんざりとした目をこちらに向けてきた。
じっとしていることに飽きた様子だった。
「もうちょっと我慢してよ」
「寒い」
不快そうに眉を寄せながらも、体の位置を動かすことはなかった。
はじめのうちはデッサンのためにじっと見つめられるだけでも居心地悪そうに身じろぎしていたのに、
モデルが板についてきているようだ。
堺には不思議な魅力があった。
自分と同じ、ただの男の体のはずなのに、なぜだか目を離せない。
それがなぜなのか知りたくて、石神は堺を描く。
彼を縁どる輪郭の危うさ、細く長く伸びた睫毛や、引き締まっているとも、頼りないとも見える腰の線。
それこそ毛穴の一つひとつまで写し取りたいのに、
どんなに時間を費やしても、どんなに絵の具を重ねても、納得いくようには描けなかった。
不自由さに焦れて、絵筆を投げ出す。
大きく伸びをすると、持ち上げた肩が重たくて、ずいぶん長い間集中していたのだと知れる。
「やめるの」
「ちょっと休憩」
「ふうん」
堺もまた、体を起こすと大きく伸びをした。
背中が反って、肋骨が皮膚の下からその形を主張する。
無駄な肉のない体は、つい触ってみたくなるほどに白い。
「ごめんね、寒いでしょ」
素肌に毛布をかけてやると、堺は寒さを思い出したように肩をすくめた。
粟立った二の腕に触れれば、まるで外に積もる雪のようにひやりとしている。
この冷たさまで絵の中に再現できればいいのに、うまくいかない。
自分の力量は、描きたいものの存在感の前にあまりに未熟だ。
「あたりまえだ、ばか」
堺がもたれかかってくるのを、正面から抱きしめる。
腕の中にすっぽりと収まる、とはいかない。やはり堺は男だと思う。
なのになぜだか、堺の首筋から甘いような匂いがして、石神の雄が反応する。
「じゃあ、一緒にあったまろうか」
「ばかっ……ん、」
絵の具で汚れた手で背中をゆっくりと撫で上げると、それだけで堺は息を詰めた。
手で、唇で、舌で、飽きるほどに触って知り尽くしたはずの、堺の感じやすい体。
どこが一番気持ちいいのか、どこを刺激すれば一番いい声で啼くのか知っているのに、絵にはならない。
若い石神にとって、ままならない苛立ちと欲情とはとてもよく似ていた。
鎖骨のあたりに歯を立てて痕を残す。
痛い、と口では嫌がるそぶりをみせるくせに、指先は石神のものにやわく触れている。
どちらが本心なのか、あるいはどちらも本心なのか、惑わされる。
ぐちゃぐちゃの頭のまま、最後はただ彼を抱くことに没頭した。
堺も、モデルのためにじっとしているよりもこちらのほうがよほど性に合っているとばかりに、
淫らに腰を振って応えた。
彼のそんな本性が石神を夢中にさせる。
熱をぶつけあっている間は、絵のことを忘れた。
けれどもお互いが射精したあとで、自分の描いた彼の姿を見ると、
喉の奥から吐き気に似た違和感がせりあがってくる。
違う、そうではない。
腕の中の彼は、こんな淡白な絵の中には納まりきらない熱情を自分に見せつけたではないか――
そしてまた石神は、彼を描かずにはいられなくなるのだ。
うんざりした顔の堺を無理やり椅子に座らせ、キャンバスと堺とに交互に目をやっては、ひたすら手を動かす。
気にいらなくて苛立っては、堺を抱く。
またキャンバスに向かう。その繰り返しだ。
そうこうするうちに、石神の住む離れの押し入れには彼の姿を描いたキャンバスが無造作に積まれていった。
それに目を付けたのは金儲けに余念のない石神の父親で、
そのうちの一枚が石神の預かり知らぬところでコンクールに出品されていた。
椅子に腰かけ、やや上体を傾けて目を伏せている裸体の彼を描いたものだった。
盗み見るような密やかな視線がこちらに向けられている。
石神の比較的気にっている一枚であったから、
怒ったりするよりも先に父親の選択に半ば感心したものだ。
かくして彼の裸体は衆目に曝され、石神はわけのわからないうちに偉い芸術家に賞を貰い、
そして東京の美術大学に進学が決まっていた。
卒業してすぐに故郷を離れることについて、彼を置いていくことについて、
石神は特に何を感じるわけでもなかった。
新しい場所に行けば新しい出会いがあり、新しいことが起こるのだろうと、
それは水が流れるが如く自然なことだと、そういうふうに受け止めた。
けれどもやはり堺を描いたキャンバスだけは手放し難く、すべて東京の下宿に持って行った。
ただ、彼が欲しがったので、横顔を描いた一枚だけは彼に譲った。
それは石神が一番、気に入っていないものだった。
東京で石神は、絵筆を握ることよりも目新しい遊興に没頭した。
あの町にはないものがあった。
そして生活に困るたび、一枚一枚その絵を売っていった。
それは静かに、しかし確実に美術愛好家たちの手に渡っていった。
憂いを含んだ、まだ少年の危うさの残る男の裸体。
石神が外側も内側も知り尽くして描いた絵たち。
それでも当時は納得いかず、まだ未完成と思っていた絵たち。
今はなぜだか他人が描いたような、これで完成しているように思える。
それらが今の石神の「先生」と呼ばれるような地位を築いた。
今回の帰郷は、その彼に会うためだ。
昔の絵のモデルに会うなんて今まで一度も思いかなかったけれども、
写真を見たら急に故郷の冷たさと、抱いた体の熱さがよみがえった。
それを確かめたいと、そう思った。




汽車が止まる。石神を降ろして、またもっと遠くに進んでいく。
駅の外に出ると、凍える空気で息が白い。
まだ雪の季節にはならないから、灰茶の地面が見えている。
自分の頭のなかの故郷の記憶と僅かに違和感を覚える。
駅の近くの交番で尋ねると、彼は郵便局に勤めているという。
けれども今日はお休みだから家にいるのでは、とそこまで教えてくれた。
中年の駐在がいやに親切だったのは、自分があの『石神達雄先生』だと知っているからだろうか。
彼の家に向かう。
相変わらずこの何もない町に、新しいものなんて落ちていない。
川沿いにある彼の自宅は、手入れのあまりされていない庭と、崩れかけの竹垣に囲まれていた。
門扉の表札に『堺』とあるので、間違いない。
ごめんください、と呼んでも返事がない。
遠慮なく重たい木戸を押して入り込むと、伸びきった芝生の庭先に、キャンバスが拡げられていた。
筆や絵の具も置きっぱなしになっているし、向かい合うように椅子が置かれているから、
休憩中なのかもしれない。
彼はどこにいるのだろうか、開け放された玄関から中を覗こうとすると、小柄な青年が出てきた。
「あの、何か御用ですか」
見慣れない顔だった。
顔いっぱいに警戒心をあらわにしている。
石神は努めて人のよさそうな笑顔を作ると、この絵は君が描いたのかい、と聞いてみる。
「そうです。……下手なんで、あまり見ないで下さい」
青年が早口で答える。
確かにお世辞にもうまいとは言えない。
デッサンも狂っているし、男だか女だかすらわからない。
八つ切りの画用紙にクレヨンで描きなぐったほうが似つかわしいくらいの画力だ。
なのに何故だか目を引く。
描かれた人物は横を向いていて、まっすぐな視線を画面の外に投げかけていた。
きっとこの目を描きたいがために、彼は筆を取ったのだろう。
そういう動機があることは、それ自体が美しいことだ。
石神がかつて、堺の皮膚の冷たさを、体の奥の熱を、相反するふたつを描きたかったように。
「いや、この絵の人は、とてもいい瞳をしているね。きっととても美しい人なのだろう」
「はい、きれいな人なんです。
堺さんは横顔が一番きれいだから、それを描いたんですけど、うまくいかなくて……」
若者ははにかんで、しかし誇らしげに、モデルを褒めた。
その名前を堺、と言った。
あまりに下手すぎてわからないけれども、この絵は彼なのかもしれない。
「石神!」
背中のほうから声がした。振りかえると、懐かしい顔があった。
あの頃と変わらない姿、というわけにはいかない。
体つきの頼りなさは薄れて、積み重ねた歳月の分だけ精悍になった。
「久しぶりだな、元気だったか?」
堺は木戸をくぐって駆け寄り、親しげに微笑んだ。
はっきりと目を合わせられてたじろぐ。
あの頃はけしてこんな顔をしなかった。
今にも溶けて消えそうな人だった。
「……ああ」
曖昧に頷くと、堺はゆっくりしていけよと肩を叩く。
懐かしい友人にでもするような仕草だ。
石神は少なからず面食らった。
けれどもそれではどんな彼を期待していたのかと問われれば、
なにも考えていなかったとしか言いようがない。
少なくとも肩に置かれた手が冷たくないことは想像の外のことだった。
「堺さん、お知り合いですか」
「石神達雄って画家、知っているだろう。後輩なんだ」
一言口をきいただけで、ふたりの間にある親密な空気がわかる。
もう一度彼に触れようなどととんでもない、石神は間違いなく堺にとって過去の存在であった。
「……いや、お暇するよ。顔を見れてよかった」
混乱した頭のまま、早足で彼の家を後にする。
ぽかんとした視線を向けられているであろうことは容易に想像がついた。
黒い外套の裾がまとわりつくようで、上手く足が進まない。
自分と堺にとって、お互いは過ぎ去った日々の遺物なのだ。
単なる思い付きでここまで来てしまった浅はかさに、我ながら呆れる。
過去は美しくかけがえがなく、そしてもう戻らない。
今の彼は昔とは違う、あの青年が描くよう、その力強い瞳でまっすぐに未来を見つめている。
もう一度、彼の絵を描こうと思った。
石神の見たことのない、力強い瞳で未来を見据える彼を、あの絵の下手な青年の代わりに。
それが石神の過去の熱情への供養になるのだろうから。








2011/2/21
2011/2/6の浅草トライアンフにて無料配布したペーパーより。