ぼくの美しい人だから







その人はとても美しい人で、商店街の片隅の小さなスナックで働いていた。
世良は毎日部活が終わるとその店に走って行って、一杯の麦茶をご馳走になった。
その人は父親の弟の妻だった人で、今は未亡人だった。
関係からいえば叔母さんと呼ぶのが妥当なのかもしれなかったけれども、
世良は年も8つしか離れていない美しいその人をとてもそんなふうには呼べず、自分の両親にならって堺さん、と呼んだ。
叔父とその人は正式に結婚しているわけではなかったので、その呼び方は他人行儀ながらも妥当だった。
「……ッス」
世良が挨拶ともつかない声を発しながら店のドアをくぐる。
申し訳程度にクーラーのかかった薄暗い店内で、その人が振り返った。
「また来たのか」
けして嬉しそうではなく、むしろ迷惑そうに眉を潜めている。
へへ、と世良がだらしなく笑うと、堺さんはため息をひとつつき、カウンターの奥へ入って行った。
今日の堺さんは大きく背中の開いた服を着ていて、頼りなげな白い背中に、世良は少し興奮した。
狭い店内にはカウンターと、ふたりがけのソファがあるだけだ。
世良はカウンターの真ん中あたりの席に腰掛けて、床に鞄を置いた。
夏の終わりが近づいたとはいえ、まだまだ暑い。
サッカー部の練習を終えてから、一回シャワーを浴びたけれども、ここまで走ってくるので再び汗だくになってしまっていた。
「ほら、一杯飲んだら帰れよ」
堺さんが、橙色のふたのついたガラス瓶から、麦茶を注いでくれる。
一杯なのだからゆっくり飲もうと思うのに、ひとくち飲んだら急激に喉の乾きを覚え、ごくごくと一気に飲み干してしまう。
コップをカウンターに置くと、堺さんは黙ってもう一杯ついでくれた。
手をつけようか、どうしようか。
だって飲んだら帰らなくちゃいけない。
迷いながらコップを見つめていると、堺さんの手が伸びてきた。
「すげえ汗」
汗で額に張り付いた前髪を、白く細い指がかきわける。
突然、喉元に刃をつきつけられたみたいに身動きがとれなくなる。
「…走ってきたから」
応える声がみっともなく掠れていたことに、堺さんは気づいただろうか。
「暑苦しいな。ゆっくり歩いてくればよかったのに」
そのとき、堺さんがやわらかく笑った。ような気がした。
再び見つめた顔はいつもの少し悲しげに見える無表情だった。
堺さんの手は一度引っ込み、今度は白いレースのハンカチが近付いてくる。
それを押し当てるようにして、堺さんは世良の額の汗を拭った。
「こんなに汗かいて…」
ハンカチからは甘い、なんともいえないいい匂いがした。
情けなくも、背筋が震えた。
こんなとき、もっと余裕な態度がとれたら、この人にも手が届くのだろうか?
世良には想像もつかない話だ。
この人の目の前に座っているだけでこんなに胸が高鳴るっていうのに。
「…だって、店開ける時間になったら堺さん、帰れって言うじゃないですか」
うつむいたままの世良は、腹から絞りだすようにして必死に声を出した。
堺さんの手が離れる。
あの綺麗なハンカチは、世良の汗が染み込んで、いい匂いも台無しになってしまっただろう。
「……走ってこなかったら、ちょっとしか会えないじゃないですか」
言い終わると猛烈に恥ずかしくなり、世良は二杯目の麦茶を一気飲みすると、椅子を蹴るようにして立ち上がった。
鞄の紐をひっつかみ、走って店を出る。
堺さんの表情なんて見られるはずがなかった。
どう思ったかなんて、想像するだにおそろしい。
体の中に降り積もる甘痒く苦々しい気持ちに、世良は大声を上げたい気持ちだった。
けれども懲りない世良はまた明日もあの人を訪ねていくだろう。
美しいあの人の淋しげな瞳に、少しでも長く自分を映していてほしいから。








2010/6/13
ついったで呟いていた未亡人堺さんネタを形にしてみました。
いざ書いてみると未亡人の意味がわからないっていう・・・ね。悲しいね。
堺さんは世良の目にはめちゃくちゃ美しい人に見えてるけど客観的に見るとまあ普通でガミさんとかはそのへんちゃんとわかってると萌え。